八戸三社大祭が豪華な山車の祭りではなかった、江戸時代のお話。
八戸のお祭りといえば、八戸三社大祭。中心商店街に燦々と照りつける太陽に目を細めながら、次々に登場する山車や郷土芸能、そして御神輿に心を弾ませいてた幼い頃の思い出は、大人になっても鮮やかに残っているものです。今回は、八戸三社大祭のはじまりについて掘り下げていきましょう。
三社大祭は、もともと“豪華な山車が練り歩く祭り”ではなかった!?
7月が近づくと、町のあちらこちらからお囃子の音色が聞こえてきますが、今年は神輿、山車、郷土芸能が練り歩くことのない静かなお祭りとなりました。
しかし、八戸三社大祭は江戸時代の発祥から300周年、明治時代に3つの神社のお祭りになってからは135年が経ちました。
このお祭りの主役といえば、何を思い浮かべるでしょうか?
300年前、初めて行われたお祭りは「三社大祭」という名前ではなく、しかも今のような豪華な山車が練り歩くお祭りではありませんでした。
では、何が主役だったのか? 今日はその辺を覗いてみましょう。
藩と領民が一緒に作った、城下町八戸のお祭り。
八戸三社大祭の始まりとなるきっかけは江戸時代に遡ります。八戸の町が八戸藩の城下町だった1720年、当時の町の有力者たちはお殿様にこんなお願いをしました。
八戸市立図書館に行って、江戸時代の記録が記された八戸藩日記を見せてもらいました。江戸時代の八戸城で働いていた人が書いた業務日報のようなものですね。
この内容は、ざっとこんな感じです。
「今年は土用に入っても天候が悪いので、町の有力者である乙名たちが鎮守法霊に湯たての祈祷をお任せして、天候が回復したならば法霊の祭礼を賑やかに行いたいと申し出てきた。やがて祈祷の効果が出てきたので、乙名たちは来年から御神輿を長者山の虚空蔵堂に御旅させ、踊りなども行いたいと重ねて願い出てきた」というのです。
当時の八戸のお殿様、四代目南部広信はこれを聞き入れ、御神輿を作ることを許可。そしてお殿様自身も協力して、翌年1721年から法霊社の御神輿を長者山の虚空蔵堂(現在の新羅神社)へと渡御させるお祭りを行うようになりました。
江戸時代の城下町の道を現在で例えると?
御神輿は、八戸城内の法霊社を出発します。今の三八城公園があるあたりですね。そして、市役所前を通って、カネイリ番町店の横を通り、さくら野百貨店がある角を曲がって、吉田産業のあたりに向かい、裏通りに入って天聖寺の十字路を鍛冶町方面へ向かい、そして長者山へ向かいます。
そしてお還りは、長者山を出発して、今の八戸ブックセンターがある裏通りをまっすぐ柏崎方面に進み、表通りに入って、柏崎のセブンイレブンや、八日町のみちのく銀行八戸営業部などの横を通って、八戸城に帰って行きました。
いや……江戸時代にカネイリやセブンイレブンがあるわけないだろ……とツッコミがきこえてきそうですが、八戸中心商店街の道路は江戸時代の城下町の道がそのまま使われているんです! だから今でも私たちは、江戸時代のルートをほぼそのまま巡ることができてしまいます!
祭りの本当の主役とは?
そして、このルートを辿った御神輿にお祭りの主役が載っています。江戸時代、藩主にとっても領民にとっても心の拠り所だった神様が御神輿に載って城下町をめぐったことは、どれだけありがたいことだったのでしょうか。
この御神輿は藩士や領民からの献金で作られたそうです。
藩は大通りに面した屋敷には「きちっと正装をするように」と指示を出し、行列に参加する人々は身を清めて参加した人もいたそうです。沿道の人々は神聖な気持ちで御神輿を見ていたのかもしれません。
神輿渡御には藩も深く関わっていて、藩士が祭りに参加したり、お殿様が国元にいらっしゃる時にはお殿様もご覧になったりしました。お殿様も、藩士も、領民も、みんなが深く関わって行われた感謝のお祭りだったんですね。
こうやって江戸時代を振り返ってみると、八戸三社大祭の起源となった法霊社の神輿渡御の祭礼は、当時の南部のお殿様がこの地を治めていたからこそ始められ、領民と藩が協力して行ってきたことがよくわかります。
八戸三社大祭は、日照りが続いて苦しんでいた当時の人々が天候回復のお礼にと始めた神輿渡御の神事であることは、忘れたくないものですね。
この記事の執筆にあたっては、工藤竹久著「概説 八戸三社大祭」を参考にしました。