何度も這いあがってきた、えんぶりの逆境の歴史。

八戸を代表する伝統芸能『八戸えんぶり』。 八戸市、南部町、階上町、おいらせ町などから30以上のえんぶり組が集まり、雪の舞う中、大人も子どもも一緒になって舞を披露する感動的な芸能です。

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mamo
八戸市出身。えんぶりと三社大祭が好き。写真ブログ『すぐそばふるさと』をゆるく更新中。2018年、えんぶり写真集『えんぶりといきる』を自費出版し、東池袋カクルルで個展を開催。音楽フェスや文化関連の委員などもやってます。2020年、コロナ禍でひとり近場の歴史巡りを始める。音楽はもっぱらジャズとディズニーのサントラ。特技はマリオカート。実はドラムやります。コロナ禍が収束したらミッキーマウスに会いたい。

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2021年は新型コロナウイルスの流行によって残念ながら中止となってしまいましたが、これまでも、えんぶりは苦難を乗り越えてきた歴史があります。

 

明治時代には5年間、えんぶりが禁止されていた!?

その昔、えんぶり組は村落ごとに存在し、100組以上あったともいわれています。冷害地帯だった八戸は何度も凶作に見舞われ、多くの人々が犠牲になった悲しい歴史があります。豊年を祈るえんぶりは、逆境の中で絶えず受け継がれ、今日まで脈々と続いてきました。

明治に入り、冷害や凶作とは異なる障害がえんぶりに携わる農民たちの前に立ち塞がります。

それは「えんぶり禁止令」。

「南部地方の習慣にて、えんぶり踊りととなえ、鉦太鼓三絃等を以って囃たて、異形の姿にして横行し、或は人家に立ち入り、金銭米穀を貰い受けているとのこと、不届きである。これはご維新以降定められた太陽暦を守らず、なお旧来の陰暦により、斯る醜態を醸しおこることなれば、自今旧来のえんぶり踊りを厳禁せしむるものである。心得違いの者これなきよう、この旨を伝達致すものである」(正部家種康著『みちのく南部八百年 地の巻』より)。こうして、当時の青森県はえんぶりを禁止します。

難しい内容なので要約すると、「おかしな姿をして人の家に入って行ったり、金銭や米などをもらうなんてとんでもない習慣がある! しかも旧暦なんて天皇の意向にそむくのかこのやろー」みたいな話です。

旧暦の小正月に行われていたえんぶりは、太陽暦を採用した明治新政府の方針にそぐわないと判断されたのでしょう。この禁止によって、明治9年から13年まで、えんぶりが禁止されました。ちょうど同じ頃に、青森のねぶた祭りも禁止になっていたようです。

 

農民の芸能を神社の例祭として復活!

しかし、それを嘆いた一人の人物がいました。八戸藩の侍だった、大澤多門です。

長者山新羅神社のふもと、糠塚地域に住んでいた大澤は、大のお祭り好き。明治5年に、八戸で初めての劇場『於多福座(おたふくざ)』を山伏小路(現在のまつりんぐ広場のあたり)につくり、八戸の文化振興をはかります。さらに明治19年には、当初おがみ神社のみで行っていた祭礼に、新羅神社、神明宮を加え、三社合同の祭礼(後の八戸三社大祭)の開催に導いた人物でもあります。

於多福座のあった山伏小路付近には、八戸三社大祭の山車小屋を併設した公園「長者まつりんぐ広場」が整備されていて、夏になるとお囃子を練習するこども達の姿がみられます。

えんぶりのない八戸は、どんな状況だったのでしょうか。現在も長者山新羅神社に立つ大澤らを称える石碑『頌徳碑(しょうとくひ)』に、その様子が書かれています。

「明治の頃より、えんぶりの儀の衰え振りは、遂に中絶のやむなしに至れるや久し。為に、村落において冬季の消閑自ら俗事に傾く非あり。従って町屋も閑散活気なきに至れる」

長者山新羅神社の頌徳碑に深々と頭を下げるえんぶり組の人々。

えんぶりを中止したことで、郊外の農民たちは冬の楽しみを失い、町も閑散として活気がなくなってしまったようです。

明治14年、大澤らは、農民の芸能だったえんぶりを『長者山の稲荷神社の例祭』として「豊年祭」と名づけ、復活させることに成功します。

この時、令和まで続く『八戸えんぶり』の礎を築いたと言っても良いでしょう。

 

歴史上、感染症の影響で中止になったことも。

しかしえんぶりは、復活後も順風満帆とはいきませんでした。

八戸工業大学第二高校の生徒の皆さんは、令和2年度「総合探究」の授業の中で、明治時代の新聞からえんぶりの歴史を調査しました。その結果、復活後も、えんぶりは何度も何度も中止になっていたことがわかりました。

明治30年は、明治天皇の母親にあたる英照(えいしょう)皇太后の死、31年と32年には赤痢・天然痘の流行、35年には多くの犠牲を出した八甲田雪中行軍の遭難事故、明治36年・37年には冷害による中止と、わかっているだけでも明治30年代に6回も中止に追い込まれたようです。

生徒の皆さんは「戦争もえんぶりの開催に影響した」と分析していて、その後に始まった日露戦争による資金難で、これ以降も中止になった年があるかもしれないそうです。

明治14年のえんぶり復活からちょうど140年経った令和3年、新型コロナウイルスの流行によって八戸えんぶりはまた中止に追い込まれました。多くのえんぶり関係者や、えんぶりが大好きな子どもたちが残念な思いをしたことでしょう。えんぶりの中止は、大正天皇の崩御による中止から実に94年ぶりのことでした。

えんぶりの歴史を振り返れば、冷害による凶作、県による禁止、疫病、戦争など、社会情勢に振り回されながら、まさに苦難の道を歩んできた芸能であることがわかります。

 

多くの苦難を乗り越えてきた『えんぶり』は、八戸の春の象徴。

八戸の春は、えんぶりによって目覚めると言われます。八戸の人々は数々の逆境に見舞われ、たびたび中止に追い込まれても、えんぶりの文化を守り続けてきました。

2月の八戸、ときには最高気温でさえ氷点下という厳しい環境の中で、囃子を奏で、唄い、喜びに満ちた舞を披露する……そしてその周り集まった多くの観衆からは、歓声や笑い声があふれます。

えんぶりの写真を撮っていると、この笑顔こそが、八戸に訪れた「春」そのものなのだと感じます。

そして、寒さに絶えながら舞う人々の姿はまるで、数々の苦難を乗り越えてきた八戸えんぶりの歴史を物語っているかのよう。

えんぶりは、八戸の人々が逆境に立ち向かってきた証。この地でまた、えんぶりが賑やかに行われることを信じたいと思います。

 

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