中心街再生の鍵は“アミューズメント”? 〈メガネの玉屋〉の3代目に聞く、昔とこれからの中心商店街。【十三日町】
1938年創業の老舗〈メガネの玉屋〉の松橋さんにまちの変遷についてのお話しを伺い、1996年生まれの私にとって、知らないことばかりで、驚きの連続でした。中心商店街の元気のないニュースを聞くたびに、悲しい気持ちや焦る気持ちばかりが湧き上がってきてしまいますが、そうではなく、長期的で全体的な視点で、八戸を考えることが大切なのかもしれません。
1938年創業の老舗〈メガネの玉屋〉の松橋さんにまちの変遷についてのお話しを伺い、1996年生まれの私にとって、知らないことばかりで、驚きの連続でした。中心商店街の元気のないニュースを聞くたびに、悲しい気持ちや焦る気持ちばかりが湧き上がってきてしまいますが、そうではなく、長期的で全体的な視点で、八戸を考えることが大切なのかもしれません。
十三日町、旧〈三春屋〉前に店をかまえるのは、1938(昭和13)年創業の老舗〈メガネの玉屋〉です。現在は3代目の松橋寿昭(としあき)さんが店を引き継いでいます。
創業者は、寿昭さんの祖父にあたる松橋末吉さん。創業当初、末吉さんは歯科医院の歯科技工士として入れ歯をつくっていたそうです。ところが、太平洋戦争が始まり、開業医も医師として徴兵されてしまいます。従事していた歯医者さんがいなくなったことによる収入の不安定さを補うため、メガネ作りの副業を始めました。これが〈メガネの玉屋〉の始まりとなるのですね。
メガネ作りを選んだ理由は、入れ歯作りと似ているところがあるから。どちらも小さな部品を削って仕上げるなど、非常に繊細で、手先の器用さを求められる作業であり、末吉さんの経験を生かせる仕事だったのです。
本格的にメガネ事業に専念したのは1947(昭和22)年頃。寿昭さんの父にあたる2代目の松橋長英さんが引き継ぐ際に方針を決めたそうです。ちなみに、事業を継承する前は、代用教員として働いていた長英さん。教え子にはなんと、〈橋文〉の橋本昭一氏や〈金入〉の故金入忠清氏らがいたそう! 八戸の商売人たちを育てた先生……ってコト!?
寿昭さんが3代目となったのは2016(平成28)年。代替わりする数年前から、実質の社長業を引き継いでいたものの、いよいよ長英さんの体調が芳しくなくなってしまい、正式に3代目を受け継ぐことになりました。後継息子仲間のなかでは、代替わりが遅かったという寿昭さん。“万年専務”などと自称していたそうですが、ここでついに社長になりました。
今回は1950年代から中心商店街を見続けてきた寿昭さんに、現在の中心商店街について、伺ってきました!
「中心商店街には、八戸のほぼすべてが集まっていました。まさに八戸の“中心”だったんです」
当時の三日町や十三日町には、金物、呉服、菓子、仏具、生活雑貨など、多くの店が連なり、八戸中心商店街を支えていました。1980(昭和55)年には、旧〈チーノはちのへ〉の前身であるスカイビルが誕生し、核テナントとして〈イトーヨーカドー 八戸店〉がオープンしました。
1980年〈イトーヨーカドー 八戸店〉の進出。八戸市十三日町商店街振興組合のホームページより。
「今思えば、この頃が全盛期だったと思う」と語る寿昭さん。〈イトーヨーカドー 八戸店〉だけではなく、それ以前は、旧〈三春屋〉の前身の〈丸美屋〉と八戸最初のデパートである〈三萬(みまん)〉の2つが中心街に並んでいました。
商店だけではありません。
長根公園には天然の池があり、冬になると池の水が凍ってスケートができました。旧〈長根リンク〉の前身です。長根公園の隣には、“工都八戸”の宣伝塔となった「八戸タワー」を有する〈八戸遊園地〉もありました。70mの高さの八戸タワーには、2つの展望台があり、望遠鏡をのぞいて八戸の街並みを覗くことができたり、レストランで食事をしたりすることができたそうです。豆電車や回転ブランコ、メリーゴーランドや回転ボートといった遊具も揃っており、八戸市民の憩いの場だったのです。
中心商店街には、三社大祭の起源となった〈神明宮〉や〈おがみ神社〉、少し歩けば〈長者山新羅神社〉もあります。他にも、市民病院があり、大きな消防署がありました。八戸市役所も、本八戸駅もあります。
昭和の八戸中心商店街には、何でもあったのです。とにかく“まち”に行けば、すべての用が足りる。そんな場所でした。
松橋寿昭さん。
中心街育ちの寿昭さんは、八戸北高校出身だそうですが、湊町方面育ちの同級生に「今日、八戸さ行くべ!」と言われて、意味がわからなかったそう。それは「中心街に行こう」ということでした。それくらい、中心商店街は八戸の“中心”を担う場所だったのです。
しかし、それが特別だったと感じていた人は多くなかったようです。それゆえ、まちの存在意義など考えることもありません。寿昭さんの言葉をお借りするなら「ほっといても栄えていた」まちだったのです。
「市役所や市民病院などの市民が必要とする役割を持った施設が並ぶ区画の近くに、たまたま商業区画があって、商店を中心に盛り上がっていた。ただそれだけのことだったと思う」
当時は中心商店街だけではなく、八戸市内各所で小さな商店街が盛えていた時代でした。コンビニエンスストアもドラッグストアもありませんでしたが、バス停の近くには、〈〇〇商店〉というなんでも屋さんのような個人店がいくつかありました。電球や電池、医療品や洗剤、蚊取り線香、ジュースやアイスクリームなどがちょっとずつ並んでいるお店です。
普段の買い物はそちらで済ませても、いざ家族ででかけよう! となると、市民はやっぱり中心街に出かけていきました。数十分かかる公共交通機関を利用することも当たり前。そこに不便さを感じる人もいなかったのです。
昨今の中心商店街の衰退を、郊外のショッピングモールに一因があると考える人がいれば、ネットショッピングの普及に一因があると考える人もいます。これらは誰もが認識していることですが、寿昭さんはさらに踏み込んで、総じて「“買い物”という行為自体の価値が下がっている」と考えています。
例えば、昭和の日本では、デパートに行くために誰もが盛装をしました。普段は泥だらけになって野原を駆け回る少年たちにシャツを着せ、半ズボンを履かせ、毎日割烹着を着ているお母さんも、おろしたてのブラウスに袖を通し、お化粧もばっちり決めて、家族みんなでシャキッとしてまちに出ました。
家族みんなでデパートに行っては買い物を楽しみ、レストランで食事をしました。子どもたちは、屋上に必ずあった遊園地で遊んでいたそうです。メリーゴーランドや観覧車、小銭を入れると動き出すパンダに乗って、ぐるぐる回る遊具で遊んで、アイスクリームを食べて、歓声をあげました。当時の人たちにとって買い物にでかけることは、まさしく「レジャー」のひとつだったのです。
1951(昭和26)年、戦後初のデパート〈丸美屋〉。八戸市十三日町商店街振興組合のホームページより。
ところが現在は、盛装をしてまちに繰り出さなくても、近くのコンビニエンスストアやドラッグストア、スーパーなどで完結できますし、何より、ネットショッピングですべてが解決する時代になってしまいました。家にいて、パジャマのままで、ハイブランドの服がワンタップで購入できる世の中です。専門性の高いものでも、わざわざ専門店に行くのではなく、検索エンジンで調べ、購入したほうがてっとり早い。現代人にとっての買い物は「レジャー」ではなくなってしまったのです。
商店街とは、商店が連なるまち。買い物の価値が低下している現代社会でかつての「中心商店街」の再生はあり得るのでしょうか?
この問いかけに「中心街は必ず再生します」と言い切る寿昭さん。「しかしそれは、当時の中心商店街とは形を変えて蘇るということです」と続けました。
その核となるキーワードは「アミューズメント」。
中心商店街の最盛期とされる1980年代頃は、買い物という行為自体の価値が高く、中心商店街に来ること自体が市民にとってのアミューズメントだったのです。本当に必要なものがあるから買い物にでかけただけではなく、中心街に来ることでしか体験できない楽しみや喜びがあるからこそ、人々は中心街に集まりました。
都心部にある体験型アミューズメントパークも同じですよね。テレビやSNSでは味わうことのできない、現地に行かなければ体験できない何かがあるから、どれだけ交通費がかかろうともみんながそこに集まるのです。
「そういった意味合いを持つものが、やっぱり中心商店街にも求められていると僕は思っている。ものを買う行為ではなくて、何かを楽しみにして集まるということが、必要なんだ」
例えば、今、寿昭さんのまわりでは「昼カラオケ」が話題になっているのだそう。若い頃はお酒と共に夜に楽しむカラオケですが、お酒ではなくジュースを飲みながら、順番に歌っこを歌っていく。そうして余生を楽しんでいる人たちがたくさんいるのだそう。しかし、それもひとつの“アミューズメント”なのだと寿昭さんは語ります。
昼カラオケ、健全な響き。
他の例をあげるならば、飲食店もひとつのアミューズメントです。八戸市には全国チェーンの飲食店も多くありますが、中心商店街には全国でも類を見ないほど多くの個人経営の飲食店が立ち並んでいます。その店でしか味わえない料理や雰囲気、人との出会いも、アミューズメントのひとつになり得ます。
お祭りだってアミューズメントのひとつです。七夕祭りや三社大祭も、4年ぶりに通常開催される予定です。
アミューズメントは、テーマパークでなくて良いのです。何か特別な趣味を持った人が集まるイベントや施設があれば、それだけで人は集まり、楽しみ、アミューズメントを体験することができます。
「買い物行為の価値は、現在進行形で低下しているから、昔の“商店街”はもう二度と戻ってこないと思う。でも、物販だけじゃない、物販とアミューズメントが融合した人が集まる場所は、これから必ず再生していくと僕は思う。もはや、中心“商店”街という呼び方はふさわしくないのかもしれない。でも中心街として、人が集まる所以はこんなにはっきりしている」
変わっていく中心商店街のなかでも、変わらないものがあると寿昭さんはいいます。それは、バスや電車といった公共交通機関です。八戸を行き交う多くのバス路線が中心街のバス停を経由し、八戸から少し離れた近隣町村からもアクセスができます。徒歩15分の位置にある本八戸駅は八戸駅と繋がっており、新幹線に乗ってきた観光客も簡単に中心街に足を運ぶことが可能になっています。三沢空港からのシャトルバスも、中心商店街で停まります。
過去とまったく同じ盛栄を取り戻すことはできないのかもしれません。しかし、人が集まる仕掛けが十分に施されている中心商店街では、これから少しずつ変化が加わり、多くの時間がかかりながらも必ず再生していく。そんな確信が寿昭さんにはあります。
みなさんは、「海の樹構想」というものをご存じでしょうか? 1975(昭和50)年に八戸青年会議所が発表したスローガン「ラブはちのへ」運動をつくるにあたり、八戸の歴史を探っていたところ、八戸の道路を塗りつぶした一枚の絵を発見したそうです。そこにはなんと、八戸の地図に一本の樹が描かれているような絵になっていたのです。
樹は、海から始まり、湊町方面から中心商店街方面へ伸びていくまっすぐな道路を幹に、四方八方に細かい道が枝のように伸びています。それはまるで、八戸というまちが、海からモノだけではなく、人や価値観を受け入れて、地元の文化として発展してきたことを物語っているようでした。
「僕はまちに住んでいるから、まちがよくなればいいなと思っているけど、ここだけじゃなくて、鮫や湊の方も、駅の周りも、それぞれ良くなればいいと思ってる。それはね、僕だけじゃなくて、本当に八戸を深く愛している人たちは、八戸のまちがみんな良くなればいいと、みんな思っているんだよ」
今、中心商店街には悲しいニュースが増えています。しかし、それは八戸全体を一本の樹とすれば枝葉の話にすぎない、と寿昭さんはいいます。一度落ちてしまった葉っぱは、同じ形で戻ることはできないけれど、違う形で必ず芽生えてきます。今はただ、新たな葉っぱの芽吹きを待つ時期なのかもしれません。
「必ず流れが変わるときがくるから。それがいつとは言えないけど、必ず来るから。そこで一番大事なのは、志。いつか自分のまちがもっと良くなるという希望を持ち続けることが大切なんだよ。自分たちの代で実現できないなら、息子の世代、孫の世代に、引き継いでいくの。引き継ぐための布石作りを、今していかなくちゃいけないんだ。それが僕の役割だと思っているから、それに賛同してくれる人たちと、今、頑張ってるよ」
中心商店街の再生は、一朝一夕で実現できるものではありません。時間もお金もたくさん必要で、何より人の力が必要不可欠です。だからこそ、志が一番重要なのです。その時代を生きる人たちの思いがなければ、そのまちを存続させることはできないと思います。
八戸には、八戸を本当に愛している人たちがたくさん住んでいると感じます。今まで数々のお店や人を取材してきましたが、みなさん郷土愛に溢れていました。そうした人たちが、八戸の“今”のみに注目するのではなく、5年先、10年先の八戸に焦点をあてることも必要なことなのかもしれません。
はちまち編集部では、これからも、八戸という一本の樹に芽吹く葉っぱ一枚一枚を紹介し、みなさんに発信し続けていきたいと思います。