『八戸えんぶり』が“農民のお祭り”から“まちのお祭り”になるまで。

冬の八戸の楽しみといえば、『八戸えんぶり』。 旧暦で一年の一番はじめに満月になる小正月に行われてきた、『田植踊り』の伝統芸能です。現在では旧暦の小正月に近い時期である、毎年2月17日から20日まで行われるのが恒例になっています。八戸中心商店街をメインに、南部地方各地から集まったおよそ30組のえんぶり組が市内各所でさまざまな演目を披露します。 今でこそ、えんぶりは中心商店街で行われる“まちのお祭り”ですが、その昔は農民が舞う、いわば郊外の行事でした。えんぶりはどのようにして始まり、まちのお祭りになっていったのでしょうか。

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mamo
八戸市出身。えんぶりと三社大祭が好き。写真ブログ『すぐそばふるさと』をゆるく更新中。2018年、えんぶり写真集『えんぶりといきる』を自費出版し、東池袋カクルルで個展を開催。音楽フェスや文化関連の委員などもやってます。2020年、コロナ禍でひとり近場の歴史巡りを始める。音楽はもっぱらジャズとディズニーのサントラ。特技はマリオカート。実はドラムやります。コロナ禍が収束したらミッキーマウスに会いたい。

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すべては山梨から始まった?

えんぶりの歴史は800年ともいわれています。
約800年前、日本は鎌倉時代。源頼朝と縁の深い“南部の殿様”は、現在の青森・岩手の太平洋側の地域を与えられ、甲斐の国(山梨県南部)からこの青森県南の地にやってきました。南部という地名は、“青森県の南部”ではなく、“山梨県の南部”に由来します。

えんぶりは、綺麗な烏帽子をかぶった男性が3人または5人ひと組になって舞います。烏帽子をかぶる人のことを「太夫(たゆう)」といいますが、そのなかでも、太夫のセンターを務める太夫を「藤九郎(とうくろう)」いいます。

中居林えんぶり組の藤九郎。

この藤九郎、山梨出身である南部の殿様の家来がもとになっているという言い伝えがあります。

正部家種康著『歴史と伝説 南部昔語』には、こんな内容が書いてあります。

舞台は青森ではなく山梨。

鎌倉時代、甲斐の国に住んでいた南部の殿様の先祖南部実長(さねなが)公は、日蓮という和尚さんに山を与え、「久遠寺(くおんじ)」というお寺を建てました。今でも仏教の日蓮宗の総本山となっているお山です。

その久遠寺に藤九郎盛国という男がやってきます。

父の遺骨を日蓮の側に葬るためにわざわざ佐渡島から来たというこの男は、農業に詳しく、おまけに「えんぶり」という踊りが得意でした。実長公はこの男を気に入り、家来にしました。

時が経ち、実長公の子孫が八戸根城の殿様になり、藤九郎の子孫も八戸に移住することに。
そのとき、藤九郎の子孫が住んだのが、荒谷村(現在の八戸市売市)という場所だったそうです。この藤九郎の子孫が、今でも活動を続ける売市えんぶり組の礎を築いた・・・というお話です。

えんぶりの主役「藤九郎」は、この藤九郎盛国から来ているということなんですが、これは云い伝え。確固たる証拠はないそうです。

 

南部の中心、盛岡市には「えんぶり」の文化がない?

南部の一族の中で力があったのは、三戸南部氏と根城南部氏(八戸)でした。
長い歴史のなかで、1600年代に南部の拠点は、三戸や根城から盛岡へ移ります。三戸南部氏は盛岡に移って盛岡城を造り、根城南部氏は遠野に移って、盛岡をサポートしていました。

盛岡城跡。

そう考えると、盛岡や遠野にもえんぶりの文化がありそうな気がしますが、盛岡にも遠野にも、えんぶりの文化はありません。なぜ南部の中でも八戸一円だけにえんぶりの文化が残ったのでしょう?

 

殿様の急死で八戸藩が誕生!

南部の中心が、三戸や八戸から、盛岡や遠野に移った後、現在の八戸中心商店街を形成するきっかけとなる大きな出来事が起こります。
1664年、盛岡のお殿様である南部重直公が、跡継ぎを決めずに亡くなったのです。

殿様不在となれば、藩の先行きが危うくなります。そこで、当時10万石だった盛岡藩を、盛岡8万石、八戸2万石として分け、八戸の地が盛岡藩から独立。「八戸藩」が誕生します。

現在の八戸中心商店街の街並みは、江戸時代の区画がほぼそのまま使われているそうです。

八戸城跡に建つ三八城神社。八戸藩初代藩主の南部直房公が祀られています。

 

えんぶり最古の記録は、『八戸藩日記』の中に。

えんぶりに関する最古の記録は、この江戸時代に誕生した八戸藩の『八戸藩日記』の中で確認できます。

八戸藩日記には、正月15日に「田植」の文字が何度か出てきているそうです。1715年正月15日、「お姫様が亡くなったので騒がないように。しかし郊外での田植えについては差し支えない」といった内容の記録があります。でも、田植えは春に行うもの。正月に田植えをするわけがないので、この「田植」がえんぶりを指すものだと考えられています。

南部直房公の銅像。三八城公園にて。

現在でも活動している八戸市内のえんぶり組には、お殿様との関わりを語る言い伝えがいくつかあります。

例えば、中居林えんぶり組には「江戸時代、凶作のため殿様の御前でえんぶりを披露できなかった沼館村と白銀村から、一人ずつ参加をあおぎ、5人でえんぶりを披露した」とか、南郷島守の荒谷えんぶり組には「お殿様にえんぶりを披露した荒谷を妬んで、島守の人々が荒谷地域に火を放った」などといったお話。

南郷荒谷地区の「荒谷えんぶり伝承館」。荒谷えんぶり組が管理している。

この言い伝えから考えると、農民たちは、お殿様にえんぶりを披露することを名誉としていたのかもしれません。

 

広大な南部の中で八戸に色濃く残ったえんぶりの文化。

大昔、私たちの住む南部の地は「三日月の丸くなるまで南部領」と言われました。南部の領地に足を踏み入れたときは夜空に三日月が浮かんでいたのに、領地を出るときは満月に変わっているほど南部は広大だったという意味です。

江戸時代に盛岡から独立した八戸藩は、南部の中でも特別な歴史を歩んできたのでしょう。

えんぶりがいつどこで始まったのかはまだ謎の中に包まれていますが、えんぶりは、広大な南部の地の中で特に八戸を中心に発展してきたことは事実のようです。

八戸にえんぶりの文化が色濃く残っているのは、八戸藩の領民がお殿様にお見せすることを誇りとしてきたことが影響しているのではないでしょうか。そしてこれが、えんぶりが今でも「まちのお祭り」として根付く契機となったのかもしれません。

 

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