“野の天文学者”が興した〈マエバラ本店〉。人生の節目に贈りたい(贈られたい)ジュエリーと時計の老舗。【番町】

今年で創業135周年の〈マエバラ〉。二世代、三世代に渡って地元人に愛される老舗宝飾店であり、八戸地域はもちろん、県内外から婚約・結婚指輪を求めてカップルが訪れます。かくいう筆者も今を遡ること10数年前、未来の夫さんから指輪をいただいた思い出が……。 数多くの人生のドラマを見守ってきたマエバラですが、その創業者の人生も実にドラマチックなものでした。

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馬場美穂子-mihoko-baba
青森県八戸市出身、在住。タウン情報誌編集を経て2007年、ブランドショップ販売員、環境教育講師などをしながら執筆活動開始。2011年、八戸ポータルミュージアム はっち開館企画『八戸レビュウ』参加をきっかけにフリーライターを名乗る。おもに青森県~岩手県北の人・企業・歴史を取材し各種媒体に執筆するほか、地域のアートプロジェクトに参加するなどフリーダムに活動中。三姉妹の末っ子にして三姉妹の母、重度のおばあちゃん子。

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世界初!ハレー彗星の太陽面通過を観測。八戸が生んだ知られざる偉人。

前原寅吉(2枚とも)。研究者としては“天文山”と名乗り、前原時計店も通称“天文堂”と呼ばれていたとか。

前原寅吉(まえはら とらきち)は、明治43(1910)年に世界で唯一、ハレー彗星の太陽面通過を観測した人物。太陽黒点の観測に成功したことがきっかけで、日本天文学会特別会員となっています。プロの学者でないにも関わらず独力で研究を続けたため、“野の天文学者”と呼ばれます。

まごうかたなき世界レベルの偉人……! しかし以前は、地元八戸でさえ存在を知られていませんでした。
そこに光を当てたのが、現在 (株)マエバラ代表取締役社長を務める前原俊彦(まえはら としひこ)さんです。

前原俊彦さん。寅吉から数えて四代目、曾孫にあたります。

恩師である著名な歴史学者・色川大吉(いろかわ だいきち)さんの協力を得て、寅吉をテーマに大学の卒業論文を発表したのが1982年のこと。以来、本業のかたわら寅吉の生き方や業績を発信してきました。

その結果、寅吉の生涯は舞台や漫画になり、NHKの人気歴史番組でも取り上げられました(要潤さんが時空を超えるジャーナリストに扮する『タイムスクープハンター』。筆者も大ファンでした!)。

2018年には、国際天文学連合が小惑星に「20080番Maeharatorakichi」と命名するなど、前原寅吉は今では、八戸ゆかりの偉人の一人として知られます。

寅吉愛用の天体望遠鏡をオモチャにして育ったという前原さん。

「自分のひいおじいさんのことを紹介するなんて、初めは照れくさかった」と笑いながら、自身の研究成果をもとにお話を聞かせてくださいました。

それではここからは、“野の天文学者”前原寅吉の物語に、しばしお付き合いください――。

 

明治維新の激動の中で。

時は明治5(1872)年。福沢諭吉の『学問のすゝめ』が刊行されたその年、八戸藩士・前原家に3人目の男の子が生まれました。

明治時代の札の辻(ふだのつじ=官の制札を立てた辻)。左側が現在のさくら野百貨店八戸店。

後に現在のマエバラの前身、〈前原時計店〉を興すことになる前原寅吉です。

明治維新によって武士の世が崩壊するなか、寅吉は八戸尋常小学校を卒業すると13歳で時計店に弟子入り。自立を目指して修業しながら、スウィフトの『ガリバー旅行記』に夢中になるなど、知的好奇心旺盛な少年でした。

なかでも一番興味を惹かれたのが天文学。10歳から天文日誌をつけていたといいます。

20歳で独立した寅吉は夜遅くまで働き、仕事を終えると天文研究に熱中。地元の写真店店主・高野直太郎(たかの なおたろう)との共同撮影で月を撮影し、明治38(1905)年には、独自に考案した黒色ガラスレンズを天体望遠鏡に取り付け、今度は太陽面の黒点の撮影にも成功します。

東京の三省堂から専門書を取り寄せ、太陽や星々を観測するのに夢中でした。

寅吉と高野が共同撮影した月の写真。先端技術を取り入れ発明家としての一面も持っていた寅吉は、撮影器具のほかにも消防用ポンプや馬用体温計などを発明している。

黒点撮影成功から5年。明治43(1910)年、世界は天文に端を発したパニックに陥っていました。

ハレー彗星が地球近くを通過するため、「彗星の尾が地球を包み込み、空気がなくなる」という噂が世界中を駆け巡ったのです。

日本でも、自暴自棄になり花街で全財産を使い果たす人、自転車のタイヤチューブを買い込んでは空気を詰めて「いざというときはこれを口に咥えれば助かる」とうそぶく人など、大混乱に。

一方、世界中の天文学者は、当時最新の機材を揃えて”その瞬間”を待ってもいました。

そして5月19日、午前11時20分。いよいよハレー彗星が太陽面を通過。
世界の天文台が失敗する中で寅吉だけが、自宅物干し台に取り付けた天体望遠鏡で、世紀の天文ショー観測に成功します。満州の新聞に大きく報じられ、時の人にもなりました。

しかし、寅吉にとって大切なのは世間の評価より、天文学の普及、そして天文の知識を社会に還元することだったよう。

オリジナルの天文教材を何千枚も自費で印刷し、国内はもちろん、台湾・ハワイ・満州・朝鮮など外、国の教育機関に無料配布しています。

教材に添えられた言葉は、

「天文をさかんにしつつあるゆえに世の迷信はうすくなる」。

オリジナル教材『天体之現象』。“彗星パニック”のような、正しい知識がないゆえの混乱を防止するために作ったのかも?

日清・日露戦争が起きた明治時代に、北東北の地方都市から世界に向けて天文学を広めようとしていた。まるで寅吉自身が宇宙から地球を見下ろしているような、高い視座を持っていたことが分かります。

また、八戸地域で頻発する冷害と天体の関係を解き明かし、飢えに苦しむ人たちを救う志を持っていていたことも、残された研究ノート『天文論文集』から分かっています。

時計職人としての仕事と観測で目を酷使した結果、40代初めに失明しても(「借りし目を 四十の坂で 返しけり」という句を詠んでいます)、すでに店を任せていた息子の義臣が日中戦争で戦死し、最愛の息子と一家の大黒柱を同時に失っても。

近所の学生や家族に観測を代行させて研究を続けたのは、目標を失わなかったから。
天文学を普及させ、地域で役立てることを使命と考えていたからではなかったでしょうか。

寅吉の研究成果と世界観が分かる『天文論文集』(上)。失明した寅吉に代わって献身的な妻“なか”や家族・親戚・近所の学生たちが書写や口述筆記で綴った。下は愛用の天体望遠鏡。現在〈はっち〉4階〈こどもはっち〉で見ることができます。

終戦後の昭和25(1950)年、寅吉は78歳で生涯を閉じました。前原時計店は(株)マエバラとなり、孫の義一さん、そして曾孫の俊彦さんへと受け継がれて現在に至ります。

 

機械式時計の小宇宙と、星の輝きをうつすジュエリーがお待ちしています。

現在のマエバラ。照明を受けて輝くジュエリーは、まるで惑星?

前原さんは1985年、十三日町にファッションビル〈ヴィアノヴァ〉がオープンするのと同時に帰郷して35年余り。

 明るいニュースばかりではない中心商店街の状況ですが、「変化はいつの時代も同じですから。寅吉が生きた明治維新の頃を思えば、今の変化はどれ程かな? と思う」と前向きです。8年ほど前から、中心街の今・昔の写真や方言など、八戸をテーマにSNSで情報発信を続けています。

「今は中心商店街の意味、役割が変わる時のような気がします。ブックセンターや美術館のように文化施設が集まってきましたから、必ずしも中心街=お買い物にこだわらなくてもいいかもしれません。中心街から発信するのもアイデアですが、逆にお客様が自分のやりたいことを実現できる場所、お客様が主役になれる街にもなれたらいいですね」

時計の電池交換もOK。田中貴金属工業(ロンドン金市場 公認審査会社)特約店・提携店のため、本店では金・プラチナ地金の売買、金・プラチナジュエリーの取り扱いも頻繁に行われています。

「100以上のパーツが組み合わされて動く機械式時計は複雑かつ精密で、“小宇宙”と呼ばれることもあります。科学好きで宇宙に関心を持つ寅吉が時計商になったのは、自然なことじゃないでしょうか」と前原さん。

時計専門店から宝飾店となった今では、〈ロイヤル・アッシャー・ダイヤモンド〉や〈カフェリング〉といった良質なブライダルリングブランドのアイテムを豊富に取り揃え、ジュエリーを通じて多くの人々の人生を応援してきました。2019年に『東日本ジュエリーショップ大賞』を東北で初めて受賞したのは、地域で愛されている証。

また、オリジナルのブライダルリングシリーズ〈Laputa(ラピュータ)〉もリリースしています。

「ジュピター(木星)」に「ポラリス(北極星)」、星座の名を冠したダイヤモンドリング。輝く星々がハートに入ってきた、という感じがしませんか。

“小宇宙”である時計と、惑星の煌めきを思わせるジュエリーを届けているマエバラ。
現在の姿を、寅吉はどんなふうに眺めるのでしょうか? 

「天と地との差こそあれ、鉱物から宝石を作るも立派な自然科学の結晶。我が子孫よ、あっぱれ!」by寅吉……なんて。

美しいジュエリーを前に、想像とロマンと宇宙は膨張し続けるのでした。

〈ラピュータ〉シリーズ。

 

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